第二次世界大戦前・戦中

このページでは、VW社の歴史について書いてみました。

第二次大前・戦中編~現在まで4ページに渡って綴って見ます。

1934年

1934年1月17日、VW社の始まりは、現在、ドイツ製スポーツ車の名前で有名な、フェルディナンド・ポルシェ博士が、当時のドイツ政府から”ドイツ人民の為の車”を設計するように要請を受けて考案したことからです。

博士は、小型車を開発しようとしましたが、当時、ドイツの自動車メーカーは、裕福な顧客のために高級車を生産していたため、VW生みの親ポルシェ氏は、ドイツ自動車連盟から孤立することになりました。

1935年

ドイツ自動車産業を活性化させると同時にドイツ内でのモータ-ジェネレ-ションを大衆のレベルまで広げるという経済的目標を持った博士は、それでもメゲずに、ポルシェ氏個人のガレージで有志のチームと共に量産に向けての設計と製造が開始されました。

現在、ポルシェと名づけられた車とは対照的に、経済性を追求されました、しかしながら、この車に対する技術は、当時の最先端以上の技術が、注ぎ込まれました。

この時点では、まだ、デザインは、不完全でした。

1936年

ドイツ自動車連盟加盟企業は、VWの生産プラントを建設し、量産することに二の足を踏みました。

それは、VWの生産を踏み切ることで政治的な影響が及ぶのを危惧していたからです。

そこで、博士は、アメリカに渡り、VWの生産をどのような形で推進すべきか、視察してきました。

その結果、年間100万台を生産する必要が有ると報告されました。

しかし、この数字はあまりにも高くて達成されたのは、1961年でした。

(ポルシェが開発した最初のフォルクスワーゲン、プロトタイプのセダンとコンバーティブルモデル。)

1937年

当時のナチスドイツ政府はドイツ労働戦線の長官をフォルクスワーゲンの製造及びVW工場建設の責任者に任命し、街にもこれに従うように指示を発令しました。

政府の後押しも有ったためか、 1938年の最後のプロトタイプ完成までに費やされた費用は約3000万マルクに達っしましたが、この時期にこれほどまで、最新技術を駆使した車を作りだしたことを考慮すると、それほど莫大な金額ではありませんでした。

工場の場所は、主要道路や高速道路に面した場所に決まりました。

それは、連絡の便宜性や軍事的戦略の面から考えられたものでした。

その結果5月28日にドイツ・フォルクスワーゲン準備会社が発足しました。

1938年

フォルクスワーゲン製造有限会社の名前で正式に会社登録が行われました。

1948年までこの会社の本社はベルリンに置かれ、会社の運営費用のほとんどはドイツ労働戦線により賄われ、製品は積立金制度を設立して生産されました。

代金は事前に設立された口座に週5マルク振り込み積み立てをするという方式で、多くの国民が購入の為に積み立てをしました。

そして、1938年7月3日、最初のビートルが披露さました。

1938年7月3日、披露された最初のビートル。
ビートルの名前は、そのスタイルからニューヨーク・タイムズが、皮肉を込めて名付けたものでした。

しかしながら、高低差1,232メートルもある12.6キロの道を21分54秒4で走破した性能に対して、ジャーナリスト達は、

「これよりもはるかに大きな車で走り、エンジントラブルがなかったとしても
この行程は25~26分はかかる。この強さはまさに芸術品と言えよう。」

と絶賛しました。

1939年

工場の建設は着々と進み、その結果4月には生産設備が設置されるまでになりました。

しかし、大戦の勃発にVW工場の建設も中座することになり、はるか後に至るまでビートルの継続生産は実施されませんでした。

しかし、1938年の8月1日より 開始された貯蓄プランは1939年までに17万人の応募者を集めていて、VW社は、従業員4,826人 を有する企業に成長していました。

 流線型ボディの”タイプ64”(40馬力/最高時速140キロ)
また、専門のエンジニアや技能職者の育成を目的としたブラウンシュヴァイク工場もこの当時 すでに完成していましたが、大戦勃発により最終試験を受けられたのはわずか1学年だけでした。

また、会社自体も経営が悪化し1939年には500万マルクの赤字を計上するまでに落ち込んでしまいました。

1940年

第二次大戦勃発!

このため、ポルシェ博士は、ナチス政府からVWを軍事目的のための車に変更せよと命令を受け、ジープ型車両のキューベルワーゲンが開発されたのでした。

また、この車を改良して高性能の水陸両用車シュビムワーゲンも開発されたのでした。

軍事用に開発、生産された、キューベルワーゲンとシュビムワーゲン
この当時、合計5万788台のジープ型車両と1万4,276台の水陸両用車両が生産されましたが、その生産能力はまだ余力を残していました。

なお、この時期に生産されたビートルは、大戦終了までにわずか630台に過ぎませんでした。

また、車の他にVW汎用エンジンも開発され、様々な産業用エンジンとして利用されました。

サービス及びパーツ関連の組織がドイツ中に設立されたのもこの時期で、1940年には 主要ワークショップが219拠点、

子会社によるワークショップが842拠点、そして公認のワークショップは、1,061にまで拡大しました。

1941年

この年にはVWの組み立てラインから最初のVW車が生産され、年の終わりまでに41台が完成車として出荷され、テスト車両及び宣伝の目的で使われました。
しかし、主力はジープ型車両の生産に注がれていました。

1944年

この年、従業員数は総員1万2,000人に達し、その内4,000人がドイツ人でした。

秋以降、ビートル生産用の機器は倉庫にしまわれてしまったものの、工場自体はその後も2万884台の車を生産しました。

しかし、全ての分野における物資の不足は民間でも明白となっていました。

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