VW社の歴史③(1961年~1974年)

VW社の歴史(1961年~世界進出本格化)

1961年ドイツ車VW(フォルクスワーゲン)が、多数の生産ラインを有し、ドイツ車の中で一番売れました。会社の業績が伸びるにつれて、株価は飛躍的な高値を呼び1,100%の伸びを見せました。世界進出本格化しました。

1961年

スウェーデン向けの20万台目のドイツ車VWが輸出されました。

この数字が語るように、スウェーデンはドイツ車VWにとって欧州の重要な輸出対象国となりました。

会社の業績が伸びるにつれて、株価は飛躍的な高値を呼び1,100%の伸びを見せました。

そのような中、6月1日に7,000人の株主を集めた第1回株主総会が開かれ、また、この年にはカッセル工場から50万台目の交換用エンジンが生産されています。

そして、新しい車種としてVW1500が生産ラインに組み込まれ、カルマン・ギアのクーペと共に生産が開始されました。


カルマン・ギアのクーペと共に生産が開始されたVW1500

1962年

この年から、フォルクスワーゲンバリアントというもう1つの新しいモデルが生産ラインに組み込まれました。

この車の特徴はドイツ車らしく、実用性が高く、機能的に作られているところです。

また、この年にはフォルクスワーゲン社の子会社としてウォルフスブルグの住宅を供給する目的でフォルクスワーゲン団地有限会社が設立されています。

この年フォルクスワーゲン社に働くドイツ人労働者の数は7万人を超え、ハノーバー工場では100万台目のトランスポーターが生産されています。

また、同年10月18日にはVWアメリカの新社屋が完成しました。


1962年から生産がはじまったフォルクスワーゲンバリアント。実用性が高く、機能的に作られていた。

1964年

フォルクスワーゲン社はダイムラー・ベンツ社からインゴルシュタットのアウトウニオン者の資本金半分を買い取りました。

残る50%は1966年に新しく設立した子会社との共同事業の形で買い取られました。

そして、生産規模を確保するためこの工場は1969年までビートルの生産に利用されました。

またこの年、ウォルフスブルグでは800万台目のフォルクスワーゲンがラインオフされ、また、メキシコにはVWメキシコ社が設立され、ドイツの品質基準を保ちながら、出来るだけ現地で調達した部品で生産されました。

1965年

この年、2ストロークエンジン搭載DKWに代わる新しい車を、前出のアウトユニオンの子会社が、アウディの名称で発表しました。

欧州で最新の風洞実験室が完成しました。

この実験室ではあらゆる自然環境を作り出すことが可能で、車の性能の向上はさらに高い段階へと進められました。

1966

南アフリカの子会社はこの年からフォルクスワーゲン社の100%出資会社となり、名称もVW南アフリカとなりました。

この時点ですでに500万台のフォルクスワーゲンが輸出され、エーラレシエン郊外に購入した広大な土地にテストコースの建設を行いました。

それはあらゆる道路状況も再現出来るばかりでなく、高速耐久実験のための21キロの直線コースも兼ね備えたものでした。

1967

初めてビートルにセミ・オートマチック社が導入され、VW1600ではフルオートマチック車が導入されています。

しかし、世界的な自動車不況によりフォルクスワーゲン社も年の前半は操業短縮を強いられました。そして、国内需要の活性化を目的としてビートルのエコノミーモデル、1300Aが販売されました。

ウォルフスブルグでは、工場で生産するパーツの多様化に対応するため、プラスチック製パーツの開発が開始されました。

そして南米では、50万台目のブラジル製フォルクスワーゲンを生産するという快挙を成し遂げています。

1969年

フォルクスワーゲン社の新世代水冷エンジンのモデルを生産する主力工場となるザルツギッター工場が建設され、水冷前輪駆動モデルとして最初に生産された K70が、1975年2月に生産中止になるまで21万1,127台が生産されました。

翌年には、新モデルとして、多目的車VW181が市場に導入され、ドイツ陸軍が中心的な顧客となりました。

また、この年の2月26日はウォルフスブルグから20キロほど離れたヘッレンハウス・ローデがフォルクスワーゲン社によって買収され、その年の秋から経営陣はそこから会社の指揮をとりました。

また、この年の8月21日には前出のアウトウニオンとNSUが合併しアウディNSUアウトウニオン株式会社が設立され、それから数年間でフォルクスワーゲン社が保有するこの会社の株は99%にまで伸びました。


NSUにより開発された”K70” 初めての水冷前輪駆動モデルとして生産された。

1970年

ドイツ最大のレンタカー会社「セルフドライバー・ユニオン」がフォルクスワーゲン社によって買収され、後に社名がインターレントと変えられました。

また、会社の資本金が9億マルクに増資されたのもこの時でした。

そして、ブラジルでは100万台目のフォルクスワーゲンが生産されました。

ビートル生産史上はじめて大幅なモデルチェンジが実施されたのもこの年のことで、1302及び1302Sモデルの8月生産から、ビートルは前輪サスペンション部分が新型ストラットに変更され、後輪部分がダブルジョイント・アクスルに変更されました。

1971年

将来の安全性が高い車のデザインを考えた研究会エクスペリメンタル・セーフティーVWが設立されました。

同年8月27日には500万台目のフォルクスワーゲンがアメリカに向けて出荷されましたが、空冷エンジンが終末を迎えた時期だったため、フォルクスワーゲン社は重大な局面を迎えていました空冷エンジンが終末を迎えた時期だったので、出来るだけ早い時期に新規モデルを開発し、市場へ送り出さなければならなかったのです。

また、財政的にも制限が加えられていたため、現存する部品やボディを利用して、価格的にも安価な車を生み出さなくてならなかったのですが、どのような方法をとったとしてもむこう2年間は利益が生み出せないような状況でした。

そのような中で2,000万台目のフォルクスワーゲンがラインオフしました。

1972年

この年の2月17日、1,500万7,034台目のビートルが生産され、1908年から1927年にかけて生産されたT形フォードの生産記録を見事抜くこととなりました。

未来を想定して設計された車で1回の充電で85キロの距離を走ることが出来る、ピックアップ型のフォルクスワーゲン電気自動車のプロトタイプが披露されました。

10月24日には、フォルクスワーゲンの交換サービス業務が25周年を迎え、この日に300万台目の交換エンジンが生産され、スウェーデンへ同国輸入10万台目のエンジンとして出荷されました。


1972年2月17日、1,500万7,034台を生産し生産台数世界一となったフォルクスワーゲンビートル

1973年

この年、フォルクスワーゲンの新モデル、パサートが登場しました。

このモデルは新しい世代を代表するモデルで、市場の将来を見据えた様々な新技術が投入されています。

パサートは前輪駆動車で、直列4気筒エンジンを搭載したモノコックボディの車で、空冷のVW1600に代わるモデルとして導入され、旧型の最後のセダンは5月30日にウォルフスブルグの生産ラインから生産されました。

また、秋には4ドアのバリアントが導入され(このモデルは世界で初めてプラスチック製の燃料タンクを搭載していた)そしてこの年には、ナイジェリアのラゴスにある組立工場から最初のフォルクスワーゲンが生産され、ベルギーのブリュッセル工場で100万台目、ブラジルのサンパウロでは200万台目のフォルクスワーゲンが生産ラインを後にしました。

1973年発表されたNewモデル”パサート”とナイジェリアで初めて生産されたビートル。


1974 年

30年間の生産の歴史を積み重ねてきたウォルフスブルグ、1191万9,510台のビートルを生産し、”ビートルタウン”の名前で親しまれたウォルフスブルグで、そのモデルの生産を終わらせる時がきたのでした。(エムデン、ブリュッセルその他海外工場ではビートルの生産は日産約3,300台程度で継続されていました)


新しい横置きエンジンを搭載した”フォルクスワーゲンシロッコ”


 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする