目次
第二次世界大戦後
1945年
戦後VWの製造は連合軍の統制下におかれて生産工場は、イギリス軍の統治下に置かれました。
しかし、英国の自動車産業、そして特に英国軍はVWには将来性がないと判断したため、VWの製造は、英国に吸収されずにすみました。
工場再建のための試験として英国軍のジープなどが修理され、生産設備が返還されてから遂に2台のビートルの完成車が産声をあげました。
1945年5月25日、英国駐留軍により町の会議が開かれ、VWの町をウォルフスブルグと呼ぶことが決定しました。
フォルクスワーゲンウェルクはバイエリッシュモトーレンウェルケ(BMW)の名称にならい英軍のイヴァン・ハースト少佐によりウォルフスブルグモーターワークス(WMW)と命名されました。
しかし、ウォルフスブルグモーターワークスの名前は非常に短命に終わりました。
それは、戦争終了までBMWのミュンヘンではエンジンしか生産していなかったのに対してウォルフスブルクでは完成車を生産していたからでした。
9月17日、英国占領軍政府からVW社に対し2万台のVW生産を発注され、年末までには全くの手作りでジープ型のキューベルワーゲンが1,785台生産されました。
連合軍に供給されていた、VWビートル。ドイツ政府、郵便局、赤十字などの公共団体にも供給されました。
1946年
この時期すでに一般仕様のフォルクスワーゲンビートルがより大きい規模で生産されてましたが、一般市民はまだ購入することは出来ませんでした。
CCGと呼ばれ、ドイツに対する規定賠償車として賠償という形で連合軍に供給されていました。
また、これ以外の車はドイツ政府、郵便局、赤十字などの公共団体に支給されていました。
10月14日、戦争終結後1万台目のフォルクスワーゲンが生産されました。
ここで注目すべき点は、戦争終結からわずか2週間で、戦争前の7年間に生産したのと同じ台数の車が生産されたことです。
1946年10月14日、ラインオフする1万台目のフォルクスワーゲンビートル。
1947年
VWはこの年、オランダの総輸入業者ボン兄弟と最初の契約を結んで、VWを輸出する方針を明確にしました。
しかし、工場の最終的な行方はこの時期でもさだかではありませんでした。
生産されるほとんどの車はCCG車として連合軍関係に販売され、工場に働く労働者達は家もなく、バラック住まい、これから先どれくらいの就労が保証されているのかもわからない状態でした。
そこで、イギリスは車作りのエキスパートで、責任者として従事できるドイツ人技術者を探し、詳しい調査と検討の結果、ある適任者を発見しました。
1948年
フォルクスワーゲンの取締役として、ハインリッヒ・ノルトホフ氏が、経営の指揮をとりました。
彼の基本的な信条は、従業員を大切なパートナーとして考えることでした。
この信条は今日でもフォルクスワーゲンの信条として受け継がれています。
そして、団結したVW社は、数々の素晴らしい成功を収めていきこの年の5月には2万5,000台目のVWが生産され、7月29日にはベルリンにあった本社をウォルフブルグに移し、民間化への道が着実に開かれていきました。
国自体も自立の道を歩み始めた、この時期、工場の従業員は、8,361人を数えるに至り、ノルトホフ氏はフォルクスワーゲンの製造、販売及びサービス部門をドイツ国内及び海外に設立する方針を打ちだしました。
VWの有能なスタッフ、質の高い商品、そして販売及びサービス部門の存在とその信頼性の高さは、後にフォルクスワーゲンを欧州最大の自動車メーカーへと押し上げて行きました。
生産した車に直結した保険を提供できる会社としてVW保険サービス会社が発足し、生産した車に直結した保険を提供できる会社として競合他社とは一線を画する存在として確立されました。
なお、この保険会社が提供する保険はVWディーラーを経由して購入したオーナーにのみ提供されるものでした。
その結果、ビートルはデンマーク、ルクセンブルク、スウェーデン、スイスなどの周辺各国に輸出され、輸出量は全体の約23%、金額にして2,100万マルク相当の外貨を稼ぎだすまでに成長しました。
この年の年間生産量の63.5%が国内向けに出荷され、 フォルクスワーゲンの生産量はドイツ製乗用車生産の64.4%を占めるに至りました。
1949年
この年、連合軍側は進駐を解除し、工場の処遇はドイツ連邦政府へ、そしてニーダーザクセン州政府へまかせられて、VW工場の4年間にわたる将来に対する不透明感は一掃されました。
連合軍の手から再びドイツ所有に返還されたのだのでした。
これには、イギリス、ドイツ混成経営陣のもとで達成された好成績が大きく影響しています
。
アメリカに輸出された ビートルは、 従来のどのクラスにも属さない、高い性能の実用車としてその地位を徐々に確立し、大衆から絶賛を浴びました。
また、販売を活性化するためフォルクスワーゲンは100%出資の子会社を設立しました。
カルマン社により4人乗りコンバーティブルのビートルが発売されたのもこの時期で、この車は後に世界で最も多く、そして長期間生産されたカブリオレとなりました。
VWの年間生産量は4万6,154台となり、従業員は9,497人となっていました。
国内占有率は49.3%に達し、生産ベースでは旧西ドイツが生産する乗用車の50%、そして、7カ国に輸出されてました。
カルマン社により発表された、4人乗りビートルカブリオレ。この後、33万281台のカブリオレが生産されました。
1950年
この年の3月4日、工場では10万台目のフォルクスワーゲンがラインオフしました。
コンバーティブル型、サンルーフ型、そしてセダンと種類も豊富になり価格も値下げされ海外での生産も開始されました。
ブラジル及びアイルランドが、海外生産工場の基礎となりましてまた、ドイツ国内の工場も再建され、長期にわたり北部ドイツ最大の規模となりました。
生産規模は戦前をはるかに上回るものとなりました。
ビートルと同じように、この車もゼロからのスタートでした。
このVWの初めての商用車は、全く新しいタイプの汎用車で、その当時独自の市場を築いてしまいました。
”タイプ2”で知られるこの車は様々な用途に使用できるばかりでなく、マイクロバスとしても市場に出回わり、翌年には、ベストセラーになりました。
ベースになったポン社工場内の運搬用フラットカーとVW初の商用車。
1951年
この年、VWの輸出は29カ国に広がっていて、旧西ドイツ国内におけるVWグループのネットワークは729拠点に広がり、従業員は1万1,000人になっていましたが、朝鮮戦争の影響が、この遠いヨーロッパの地にも及びました。
物資の不足により生産が中断されてしまいました。
また、この動乱は資材価格の高騰を招き、会社創業以来初めて、 標準モデルの価格を引き上げざるを得ない事態を招き生産台数が、前年を下回りました。
しかしながら、VWのサービスは顧客の間にも定着し信頼も確立されていきました。
1952年
フォルクスワーゲン産業用エンジンの生産・販売が開始され、様々な分野の産業で活躍しました。
また、最も画期的な開発である、シンクロメッシュ・ギアボックスがフォルクスワーゲンの高級輸出モデル及びカブリオレに搭載されたのもこの年でした。
この技術の開発により、ギヤチェンジの際のダブルクラッチが必要なくなり、ノイズのないシフトチェンジが可能になりました。
また、フォルクスワーゲンの子会社としてVWカナダ社が設立されました。
VWが開発した、シンクロメッシュ・ギアボックス。
この技術の開発によりスムーズかつ静かなシフト操作が可能になった。
1953年
フランス、オランダ、アメリカなどからの引き合いが殺到するようになり、輸出が成長し、国内需要も含め飛躍的な増産が必要となっていました。
そこで、VWブラジル社が、設立され積極的な、技術支援を行い、ブラジルの経済活性化にも多大な功績を残す結果となりました。
工場に働く従業員によりよい住環境を提供することを目的として、フォルクスワーゲンハウジング会社が設立されました。
1953年3月23日ブラジルサンパウロにVWブラジル社が設立される。
さらにこの年、シャーシナンバー1~454951まで、リアウインドウのセンターピラーは姿を消し、これにより後方視界が23%向上されました。
フォルクスワーゲン20年の歴史の中で初めて加えられた外観上の重要な変更であります。
1954年
10月9日には10万台目のトランスポーターが生産ラインから生み出され、同型の日産台数は80台となっていました。
また、アメリカではビートルが大成功を納めました。
ラインアウトした、10万台目のトランスポーター。この時の日産台数は80台となっていました。
1955年
アメリカでフォルクスワーゲンの2つの販売会社であるVWユナイテッドステーツIncとVWオブアメリカが設立され生産は増産され、100万台目のフォルクスワーゲンがこの年生産されました。
それと同時に価格も引き下げられ、これまでのビートル史上最も低い価格となりました。
さらにこの年、カルマン社と共同で開発したカルマン・ギアが市場に登場し ました。
外資獲得額及び利益の面でも大きな増収があったのもこの年でした。
旧西ドイツに970のディーラー、そして海外では2,498のディーラー網を持つまでに成長し、輸出は100カ国以上に達し、旧西ドイツが輸出する乗用車の50%を占めるまでに至りました。
アメリカ市場での販売は1954年の4倍を記録、販売合計台数は3万5,851台に達し、アメリカ市場はフォルクスワーゲン社にとって最も重要な市場となりました。
カルマン社と共同で開発された ”カルマン・ギア”。 7,500マルクで市場に登場した。
1956年
この年、新設されたハノーバー工場ではトランスポーターの生産が開始され、南アフリカへの進出も同時に開始されました。
フォルクスワーゲンは現地の輸入業者を買収し、VW南アフリカを設立しました。
1957年
フォルクスワーゲンへの需要は天井がないほどの勢いで伸び、生産は、フル稼働で進められました。
しかし、受注残は増える一方なので、フォルクスワーゲン社は国内に新たな工場用地を買収し、オーストラリアのメルボルンにはフォルクスワーゲン社が51%出資したVWオーストラリア社が設立され、ドイツから送られた部品を使っての生産が実施されました。
工場で働く労働者の数は3万1,000人余りに達していましたが、会社の方針として労働者の数は増員するものの、ある程度の住環境を提供できる可能な範囲までと制限されていました。
200万台目のフォルクスワーゲンビートルが、この年、出荷されました。
1958年
1948年から製造された25万台目までの車に搭載される交換用エンジンがカッセル工場で完成していました。
この時期、路上にあるフォルクスワーゲンの10台に1台は、新しいエンジンに交換されており、新車を買うのに比べて半額で
新しいエンジンに交換できるメリットはこの時期の自動車市場において非常に画期的なものでありました。
ドイツの生産量の伸びに対しアメリカでは車の生産量が下落していました。
これも生産シェア37%を誇るフォルクスワーゲンによる影響があったと言っても過言ではないでしょう。
1959年
ハノーバー工場でエンジンの生産が開始され、ドイツ市場向けの水冷及び空冷水平対向エンジンは、全てこの工場で生産されてました。
また、1月7日にはブラジルサンパウロに新工場を設立、この時点でフォルクスワーゲンの従業員数は5万人に達しました。
1960年
6月29日、フォルクスワーゲン社は有限会社から株式会社に改められました。
またこの年には科学技術の研究及び教育を目的としたフォルクスワーゲン財団が設立されました。
この財団にはフォルクスワーゲンの名前がついてはいるものの、運営は全て独立して行われてました。
また、フランスには100フランの資本でVWフランス社が、9月11日に設立されました。
この時点で、フォルクスワーゲンの乗用車及びトランスポーターに取り付けられる特別のオプションやその他の周辺部品を考慮すると、車のバリエーションは1,059種を数えるまでになり、年の半ば頃までには累計で50万台のフォルクスワーゲンが、アメリカに向け出荷されました。
ブラジルでは1959年の創業以来1万台目の乗用車が生産ラインから生み出されました。