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1974年ゴルフ誕生~世界を制する
1974年5月、ついに”ゴルフ”が誕生!!ゴルフGTIが、フランクフルトの国際モーターショーで出展されました。生産開始からわずか31ヶ月で100万台目のゴルフが生産ラインから生み出され、ゴルフは、爆発的に売れました。
1974年
この年の3月からゴルフのカブリオレの製造で有名なカルマン社で、新モデルであるシロッコの生産が開始されました。
シロッコはカルマン・ギアに代わるモデルとして導入され、これによりカルマン・ギアの生産は累計で44万5,295台をもって同年7月に中止されました。
そしてこの年の5月、ゴルフが発表されフォルクスワーゲン社は市場に、"コンパクトカー"という新しいクラスを構築しました。
これは1世代前のビートルと同じように、既成概念に捕われない、当時としては全く新しいものでありました。
フォルクスワーゲン社は再び超人気車を生み出すことに成功し、ゴルフはこの年のドイツにおける人気車種トップの座を獲得しました。
そして、翌年の初めからは、ゴルフをラビットの名称でアメリカ市場に導入しました。
また、この年ドイツ連邦郵便局は累計で10万台のフォルクスワーゲンを購入し、最大の顧客となっています。
1974年5月、ついに”ゴルフ”が誕生!!
1975年
1.6リッターのエンジンと、ボッシュのインジェクションが搭載され、最高出力110ps、最高速度は180Kmを誇った、ゴルフGTIが、フランクフルトの国際モーターショーで出展されました。
GTIとはグランド・ツーリング・インジェクションの略です。
また、新しいサイズの車種、ポロが発表されたのもこの年です。
ゴルフよりも一回り小さいサイズの”ポロ”
1976年
生産開始からわずか31ヶ月で100万台目のゴルフが生産ラインから生み出され、この年の後半からは、ディーゼルエンジン搭載車が導入されました。
この時点で、生産が開始されてから累計で3,000万台のフォルクスワーゲン車が生産されていました
わずか31ヶ月で100万台が生産された”フォルクスワーゲンゴルフ”
1977年
工場で生産された車の約80%は鉄道により運搬され、加えてほとんどの資材、原料も鉄道により工場に運び込まれたことにより、ドイツ連邦鉄道にとってフォルクスワーゲン社は最大の顧客となっていました。
10万両目の貨物列車がウォルフスブルグの工場を出発し、また、この年には新車種のダービーが登場、これにより、顧客が要望するほとんど全てのクラスを満足させる車種が勢ぞろいしました。
1977年に登場した新車種”ダービー”
1978年
この年ついに欧州でのビートルの生産が終わりを告げました。
最後のビートルはエムデン工場で1月19日に生産され、ウォルスフブルグの自動車博物館に送られました。
しかし、ビートルに対する需要は欧州内でも根強く、これに対してはメキシコで生産されたモデルで対応する形がとられました。
また、この年には1万台のゴルフが旧東ドイツへと出荷され、10月以降から4輪駆動の多目的車、VWイルティスがインゴルシュタット工場で生産開始され、VW181タイプに代わるモデルとして市場に導入されています。
その後も車のレンジは引き続き拡大し、新たにパサートのディーゼル車及びLT40、LT50が実用車のレンジに投入されました。
1979年
フォルクスワーゲン社は、1985年までに車の燃費を乗用車で10%、商用車で5%削減させる方針を打ちだし、この目標を短期間の内に達成しました。
そして、新しいモデルの開発も着々と進行し、第3世代のトランスポーターが市場に発表され、ジェッタが登場。
さらに、M.A.N.の協力のもとトラックが開発されました。
海外でもフォルクスワーゲン社はクライスラー・ブラジルを吸収し、1981年からVWカミニューネス社サンパウロの名称で操業し、また同年11月にはクライスラーのアルゼンチン工場もフォルクスワーゲン社によって吸収されました。
1950年から生産がはじまったトレンスポーターも第3世代へと進化した。
1981年
画期的なテストとして100台のフォルクスワーゲンがメタノール燃料用のエンジンを搭載し、ベルリンで大規模なテストが実施されました。
これは、ガソリンに代わる燃料の可能性を追求するためであります。
また、ハノーバー工場が25周年を向かえ、これを記念して同24日にはブラウンシュバイクのリーダクスハウゼンにマーケティングマネージメント会館が設立され、ドイツ中のディーラーがここでマーケティングに関する講習が受けられるようになりました。
また、この年の9月には、日本の日産自動車とフォルクスワーゲン社が協力体制をとることで合意にいたりました。
モータースポーツのフィルードでも,ゴルフGTIを駆ったアルフォンス・シュトック/ポールシュミックのチームが、ドイツラリーでチャンピョンシップに輝きました。
そのような中、4,000万台目のフォルクスワゲンが生産ラインを後にしました。
1981年5月5日、メキシコで生産された2,000万台目の”ビートル”
1982年
この年、500万台目のゴルフがウォルフスブルグ工場から生産され、ドイツ連邦郵便局へ福祉使用の目的で寄贈されました。
フォルクスワーゲン社は上海トラクター自動車会社、及び中国銀行上海支店と協力協定を結び、中国でサンタナの組立工場を設立し、生産をスタートさせました。
技術面では、新しい水平対向水冷エンジンがトランスポーターに搭載され、ビートルを除いた全ての車種に水冷エンジンが搭載されることとなりました。
アメリカではゴルフをベースにしたピックアップ車、キャディが開発され、欧州市場向けにこの車種は、ユーゴスラビアで生産・供給されることとなりました。
また、スペインでは、同国の自動車メーカー、セアト社とフォルクスワーゲン社との間に技術援助協定が結ばれ、フォルクスワーゲン社が51%出資した工場が設立されています。
そしてこの年、2,000万台目のゴルフGTDがウォルフスブルグ工場から生産され、フォルクスワーゲンは、世界最大のディーゼル車生産の会社となりました。
1982年、ウォルフスブルグ工場で生産された 500万台目の”ゴルフ”
1983年
これまで約4,000人の労働者を動員して行われていた、300ヶ所にわたるねじ締め工程や様々な組立てが、全て自動で行われるように、世界に先駆け最終組立工程に全自動組立ライン(ホール54)が導入されました。
これと同時に2代目のゴルフが市場に導入され、また、中国では最初のサンタナが完成されました。
モータースポーツの分野でVWは、ヨーロッパラリー・クロスチャンピョンシップにおいて総合優勝、ドイツF3での優勝などこれまでに例を見ないほどの成功を納め欧州でチャンピョンの道を歩み続けていきました。
1984年
この年、新しいジェッタが発表されました。
この車には研究開発センターの努力により先進の安全機能が搭載されているばかりでなく、環境基準もクリア出来る最新技術が結集されていました。
また、この年、フォルクスワーゲン社はエレクトロニクスの分野にも力を入れ、エレクトロニック燃料噴射装置、イグニッションシステム、マルチファンクション表示などの先進技術が新モデルに搭載されました。
1985年
この年、フォルクスワーゲン製造株式会社からフォルクスワーゲン株式会社に社名が変更されましたそして、ゴルフGTIに初めて16Vエンジンが搭載され、力強い加速力と駆動力でこのクラスに新しい基準を作り上げました。
この年度でのフォルクスワーゲン社の総販売台数は、181万7,208台でグループ全体では241万8,202台の車が世界中の人に提供され、ゴルフはドイツ市場において13%の市場占有率を持ち、ドイツで最も人気の高い車となっていました。
ポロクーペG4016Vエンジン搭載のゴルフGTI
1987
この年、エムデン工場で400万台目のパサートが生産され、6月22日には900万台目のゴルフがラインから生み出されました。
また、フォルクスワーゲンの新モデルとして、16バルブエンジンを搭載したジェッタGTが、登場し市場に発表されました。
この年の半ばには日本のトヨタ自動車との間で生産協力協定が結ばれ、1989年からハノーバー工場で1トン積みピックアップの生産が開始されることとなり、フォルクスワーゲンの商用分野に新しいモデルが加わりました。
1988年
この年の春、第3世代目のパサートが市場に投入されました。
このニューパサートは全面的に新開発され様々な点でミドルクラスの基準となる車に仕上げられました。
6月には、1,000万台目のゴルフが生産され、G60ラーダー付き1.8リッターエンジンを搭載するスポーツクーペ、コラードが登場しました。
このコラードは、オスナビュリュックにあるカルマン社で生産されました。
1,000万台目のゴルフ。1.8リッターエンジンを搭載するコラード。
1989年
この年の5月、オスナブリュックにあるカルマン社でゴルフカブリオの生産が開始されてから、ちょうど10年を数えました。また、6月には、エムデンで25万台目のパサートが、7月にはウォルフスブルグの工場で2,500万台目のフォルクスワーゲンが生産されました。
そしてこの年、フォルクスワーゲン社100%出資の新会社、フォルクスワーゲン・アウディ日本株式会社が日本に設立されました。
25万台目のVWパサート、この車はミドルクラスにおける最短製造時間の記録を作りました。
1990年
VWトランスポーターは40周年を迎えました。
第4世代のトランスポーターが市場に投入され、それに伴い、このモデルもフロントエンジン、フロント駆動へ変更され、1.9リッターディーゼルエンジンから2.5リッターガソリンエンジンに至るまで、様々なニューエンジンが用意されました。
11月6日には、ウォルフスブルグ工場で100万台目のゴルフGTIがラインオフ。
11月20日、北京ではファースト・オートモービル・ワークスとの間でジョイントベンチャー契約の署名が行われ、中国市場向けのアウディ100のライセンス生産の契約が締結されました。
12月9日、フォルクスワーゲン社とシュコダ社との間の協力を了承するチェコスロバキヤ政府の決定が公表されました。
また、モーゼルで新しい工場の建設準備を開始するため、IFA乗用車株式会社は、フォルルクスワーゲン社の100%子会社として、フォルクスワーゲン・ザクセンGmbHに変更されました。
40年間で670万台が生産されたトランスポーター。1990年4世代目が登場。
1991年
この年、カルマン社で33万1,848台目のゴルフカブリオが生産され、ついにビートルカブリオの記録を抜きさり、コンバーティブル生産台数の世界記録を達成しました。
フォードとフォルクスワーゲンとの間でジョイントベンチャーに関する契約が交わされ、ポルトガルに新生産工場の建設が開始されました。
この工場では、フォードとフォルクスワーゲンが共同開発する高級ステーションワゴンが製造されることとなりました。
そして、この年のフランクフルト国際モーターショーで、第1、第2世代の伝統を受け継いだ第3世代のゴルフが発表されました。
同時にウォルフスブルグ工場では、その生産開始を期して新しいエクノロジーと材料を(水溶性塗料)採用した塗装設備が稼働を開始しました。
また、9月にはジェッタの生産が終了し、新しいノッチバックモデルのVWヴィエントの大量生産が開始されました。
ビートルカブリオとゴルフカブリオ3代目となるゴルフ3
1992年
この年、92年型ニューゴルフとVWヴィエントの廃車について導入された制度を円滑に進めるにあたり、オストフリースランドのパイロット工場では、分解した古い車両部品を体系的に分類する為の一貫した作業工程が開発されました。
また、日本では、フォルクスワーゲン・アウディ日本株式会社がトヨタ自動車の協力を得て独自の流通網を構築しました。
1993年
フランクフルト国際モーターショーで、パサート、ゴルフバリアント、ゴルフカブリオのニューモデルを一般公開しました。
ゴルフカブリオレは、オープンモデルとして世界最高の生産量を達成しましたが、 斬新なスタイリングに加え、乗り心地と安全性への配慮が十分なされ、ロールバーも安全機能として従来型から継承されました。
ゴルフバリアントは、それまで他社に独占されていた市場を取り戻すために、これまで培ってきた技術を結集させて作られたモデルです。
また、革新的な1.9L直噴ディーゼルエンジンを積んだゴルフTDIを新たに発表しました。
ゴルフカブリオ。ゴルフワゴン。
1994年
デトロイトショーにおいてコンセプトカ-”コンセプト1”が公開されました。
そしてこの”コンセプト1”は、新型ビートルとして発表されることになりました。
また、ウォルフスブルグ工場において、1、500万台目のゴルフが生産され、さらに、13年ぶりにモデルチェンジされた、3代目ポロが市場に投入されました。
13年ぶりにモデルチェンジされた3代目ポロ
1995 年
この年の7月、1,600万台目になるゴルフがウォルフスブルグ工場でラインオフされました。
1997年
東京モ-タ-ショ-において、省スペースのW型の形状をとり、2基のVR6エンジンを組み合わせた、独自の12気筒エンジンを搭載した、フォルクスワーゲンW12を発表しました。
また、この年の8月には、ドイツのボンにおいて4代目となるゴルフ4が発表され、さらにこの年は、フォルクスワーゲン車の輸出が開始されてから50年目という新たな歴史が刻まれた年でもありました。
4代目となるゴルフ4
1998年
フォルクスワーゲンルポが発表されました。
この車はポロをベースにホイールベースを縮め、さらにコンパクトにした車で、後にTDL(直噴ディーゼルエンジン)が積まれ、世界初の3リッタ-カ-となる車でした。
またこの年、フォルクスワーゲン社は、ロールスロイス、ブガッティー、ランボルギーニを買収、傘下に収めました。
世界初の3リッターカー、VWルポTDL
2000年
この年の9月20日、ウォルフスブルグ工場において、2,000万台目のゴルフがラインを後にしました。
これは1974年にデビューしたゴルフが約25年かけて築き上げた輝かしい功績であります。